Empty theater with red chairs. Rear view.
注意:本記事はネタバレを含みます。まだ作品をご覧になっていない方はご留意ください。
映画というより舞台を観ているようだった。
主役級の俳優たちの存在感は凄まじく、一方モブはどこまで行ってもモブだった。死体として配役されたといっても言い過ぎではない。
この映画ではたくさん人が死んだ。たとえ、匿名のモブの人たちの死であっても、それがセンセーショナルに、しかも観る者にも伝わる痛みを伴って描かれたのが個人的には好感が持てた。『ダイ・ハード』のような派手さに隠れた死ではいけない気がするのだ。(なぜそれがいけないのかはここでは立ち入らないことにする)
1. 事件は取調室で起きている
同作の次の特徴として、事件は会議室、ではなく取調室で起きていた。
これまで日本の警察モノ映画を牽引した『踊る大捜査線』(以下、『踊る』)へのアンサーとしてみれば、結局事件は犯人と交渉役である特殊班の刑事が対峙する密室で起こるのであって、現場は演出上の派手さを添えるための付属品でしかなかったということになる。
さらに『踊る』と対称的だったのは、警察内部での階級を意識させるシーンがほぼ無いことだ。強いて言うなら、タゴサクの取り調べを清宮から類家に変わるシーン、あとは矢吹巡査長が本部の人への不満を露わにするシーンだけのように思う。
例えば、類家の所属は警視庁捜査一課・強行班捜査係である。『踊る』の真下警部のように交渉班やSITのような特別な名称は劇中では耳にしなかった(交渉班ってセリフがあった気も…)これらの点から、この映画が警察とタゴサクのやり取りに主眼をおいており、警察内部のことは二の次にしていたことがわかる。
同作では繁華街や駅、公園が爆破される派手なシーンに注目がいくが、密室に佇む怪物こそが主であることは間違いない。これまでの平成の警察モノが描いてきた官僚機構に敢えて触れないことで、より取調室での会話劇が特に印象づけられたのも、映画というより舞台だと思った一因のような気がする。
2. 全員欲望に取り憑かれている
そして、怪物タゴサクが語るひと言ひと言が警察や観客の気持ちを逆撫でし、「でも、もしかしたら少しはタゴサクの気持ち分かっちゃうかも」と思わせる恐怖。
取り調べ中にタゴサクの指を折ってしまう清宮刑事、出世のチャンスとばかりにタゴサクの頼みを聞いてしまう伊勢巡査長、刑事への道を諦めきれず成果を急ぐ矢吹巡査長、負傷した矢吹に代わってタゴサクに銃口を向けようとする倖田巡査など、各々がルールを破って好き勝手な行動をとってしまう。職務よりも自身の欲望に忠実であることが妙にリアルに感じたのだ。彼らは自分の欲望のままに行動し、それが結果的に市民のためになることもあるし、全然ためになっていないこともある。
その欲望から唯一逃れている例外が類家刑事、そして等々力刑事だったろう。
終盤に差しかかり、タゴサクは石川明日香のために敢えて犯人役を引き受けたようにも描かれるが(原作読んでいないので詳細は分からないが)、結局は誰かの他人が画策した事件を自分のモノとしたかった欲望に勝てていない。
ただ、類家も等々力も、比較的他人を意識しながらも自分の内面も無視せずバランス良く生きている人間であって、無私無欲に生きている訳ではない。類家が「早く事件を解決してポークステーキを腹一杯食べて、たくさん寝たい」と言ったように、自分なりのささやかな欲は持っている。だが、出世や目立ちたいなどの欲は薄い。タゴサクも類家から他人の計画を乗っ取って自分のものとしたことを指摘されて動揺したのを見ると、彼も社会から認められたい欲求が無いわけではないが、「もうどうでもいい」と諦念を抱えたように、無欲に近いところにいるだろう。
そう思えば、タゴサクが対峙する相手として類家と等々力を望むのも納得できるかもしれない。
3. 映画『爆弾』に感じた恐怖
この映画『爆弾』を観終えて、わたしが最も恐ろしいと感じたのは、我々はタゴサクのような犯人とどう向き合えばいいのだろうと、逡巡してしまうことにある。
これといった大義のない愉快犯。既存の倫理(その大半は答えが出せない問題)への挑戦。タゴサクはいわゆる無敵の人と呼べるかもしれない。
しかし、これまで日本を震撼させた無敵の人たちは、拡大自殺を図るように最後には自らの命も絶とうと試みるが、タゴサクは自身の死をどう考えていたのだろう。タゴサクが拡大自殺志願者ではなく、単に社会システムへの挑発挑戦を望んだのだとすれば、やはりジョーカーに近い性格として描かれているのかもしれない。
だが、世界中がジョーカーに熱中するなか、日本はジョーカー以上の悪を描けていないのではないか。
以前、ジョーカーのコスプレをして電車で人を切りつけ、火を放つ罪を犯した青年がいた。彼はジョーカーに惹きつけられ、外見を真似して凶行に及んだと言われている。
4. オジサンはジョーカーを超えるか
だが今回、原作者の呉勝浩が社会に提示したタゴサクはさえない中年オジサンだった。この点にこそ着目したい。
ここ日本においてオジサンという存在は、透明化され、虐げられる存在だ。だが、母数も多く、それなりに知識も知恵も持ち、社会的立場を持つ者も多い。もし仮に、オジサンたちが蜂起したならば、この日本社会はそれこそ立ち直れないくらいに崩壊するかもしれない。けれど、守るべきものがあって、そんなリスクは犯さないだろう、そんな共通認識が人々にはあるから、きっとこんな話は妄言として捨て去られるはずだ。
でも、オジサンに限らず、タゴサクがそうだったように、この社会で虐げられている人々がもつ憎悪は計り知れない。この『爆弾』が図らずも示したように、世の中に混乱をもたらすには、少しの金と知識、そして志を共にする仲間さえあれば足りてしまうのだ。「科学は万人に平等」というセリフもあったではないか。
社会に優しさが足りないのは言うまでもないが、もし何かのキッカケでその憎悪を引き出すに足る刺激が加わってしまったなら、いつ何時その憎悪が暴走して社会に牙を剥くかは分からない。
この映画『爆弾』がたんなるフィクションで終わることを切に願うしかない。